半年に1度程度という頻度で、「黙れ、左翼!」といったコメントが寄せられることがあります。何だか知らないけれども、リニア計画に疑問を呈することは「左翼」なのらしいです。
ところで”左翼”って何なのでしょう?
手元にある新明解国語辞典によると
〔左の翼の意〕右翼の反対
①軍隊・艦隊・座席などの左端(に並んだもの)。
②〔フランス革命時〕、フランス国民議会で、急進派のジャコバン党が議長席から見て左側の堰を占めたことから〕急進的・革命的な思考傾向(の団体や分子)。
③〔野球で〕本塁から見て外野の左方(を守備する選手)。レフト。
①軍隊・艦隊・座席などの左端(に並んだもの)。
②〔フランス革命時〕、フランス国民議会で、急進派のジャコバン党が議長席から見て左側の堰を占めたことから〕急進的・革命的な思考傾向(の団体や分子)。
③〔野球で〕本塁から見て外野の左方(を守備する選手)。レフト。
となっております。
たぶん、①と③は全く関係がないでしょう。残る②についても、どうしてリニア計画に疑問を呈することが「急進的・革命的な思考傾向」に該当するのか、さっぱりわかりません。
っていうか、リニア計画は日本の交通体系やら経済圏やら人の移動を一変させる一大事業なのだから、あからさまに急進的であり、それを推進させるべしという考え方こそ、私としてはまさしく「左翼的思考」なのだと思うのであります。同時に私なんぞ、「そんなに世の中を急激に変えてどーする?」という思考回路であるので、きわめて保守的です。保守的というのは”右翼”なのではないでしょうか?
何となく思い付きで書きます。
当方の勝手な妄想をお許し願えれば、開発行為に対してなんとな~く、日本国内では
環境保護を訴える=左翼
開発を優先=右翼
開発を優先=右翼
という分類パターンが蔓延しているんじゃないかと思う。けれども、これは言葉の意味合いからみて誤っているわけである。
ちょっと考えてみていただきたい。
左翼的な思考=自然保護や環境保全に好意的かというと、そんなことは全く当てはまらない。逆に「右翼」「保守」を自称していれば騒音や大気汚染への耐性ができるかというと、たぶんありえない。
そもそも左翼思考が行き着く社会主義においては、個人の価値観やら伝統的な風習などはことごとく否定され、全ては政府の”科学的な判断”によって統制されることになる。その判断がデタラメな場合、取り返しのつかない大失敗を引き起こしうるわけなのだ。だから左翼的思考を突き詰めることは怖いと思う。
世界第二位のアラル海を消滅させるという巨大な自然破壊を引き起こしたのは、旧ソ連が打ち立てた自然改造計画の結果であるし、チェルノブイリ原発の大事故なんて言及するまでもあるまい。毛沢東時代の中国では「農業はターチンに学べ」の掛け声のもと、黄土平原を一面段々畑に開墾させ、その結果、ムチャクチャな土壌流出を招く結果となったりしている。ソ連崩壊後、原子力潜水艦を日本海に沈めていたなんて話もあった。
他方、日本において近代的な自然保護制度を進めてきたのは、”左翼的思考”かというと、けっしてそんなことはない。例えば史跡名勝天然記念物制度というものがあるけど、これなんかは明治維新後、欧米の価値観の導入によって急激に失われつつあった旧跡や城、それから銘木や景勝地を守るために設けられたものである。当時は、旧幕時代の御留め山や、飛砂防止のための松原などを、二束三文で薪に売り払ってしまったりする話が横行していたのである。
「近代的(=西洋的)な価値観から伝統的な風景を守るべき」という、保守的な考え方が根底にあったわけである。といって何でもかんでも保守的=右翼的思考でいいかというと、もちろん、そんなことはあるまい。
人類の歴史は自然破壊の歴史でもある。西アジアから地中海に広がっていた森林は、ローマ帝国時代にはあらかた消失して現在のような岩だらけの景観に移行していたという。
日本に目を転じると、稲作の普及とともに原生林は姿を消してゆき、二次林つまり今でいう里山のような景観が広がっていった。仏教の伝来にともなう社寺仏閣の造成、都の造成、たたら製鉄などによって森林破壊は急激に進み、土壌流出および洪水や干ばつが頻発することとなる。そのため平安時代初期の大同元年(806年)には、山城国において伐採禁止令が出されるが、これこそ世界最古の自然保護法ともよばれる。
時代は下って江戸時代になると、木曽五木の資源保護を目的とした尾張藩のように、「木を切ったら打ち首」といった、極めて厳しい制度をしく地域も出てきた。この時代、信仰に根差して動物を大切にし、山岳地域などを神域として手を付けない価値観も、まだまだ強かったわけである。
かように、日本人が自然を保護するために受け継がれてきた価値観や社会の仕組みを一変させたのが、まさに”文明開化”=”西洋的価値観の導入”であったわけである。どっちかというと、先進的な考え方の導入によって環境破壊が進んでいったように思える。戦後の急激な自然破壊や公害についても、科学や技術という新しい価値観が根底にあるのだから、やっぱり新しい物好き=左翼的思考が根底にあるといえるだろう。
じゃあ、なぜ「自然保護を訴える=左翼」という考え方が敷衍しているのだろう?と思うところだけど、これは多分、保守を自称する自民党が自然破壊やら公害をまき散らす企業と癒着していること、それに対峙する社会党やら共産党が、1970年代の反公害闘争や自然保護運動にくっついてしまったことが原因なのだろう。1970年代というと、成田空港紛争やら大学紛争やら、その後に生を受けた者としては、対立の仕組みのよく分からない揉め事が頻発していた時代でもある。
これら、あらゆるタイプの大衆運動をひっくるめて「左翼」と一括りする考え方が浸透してしまい、今に引き続いて日本の特殊な状況を生み出したのではあるまいか?
この図式は日本の自然保護や環境保全政策にとって、きわめて不幸なことだと思う。不毛なイデオロギー対立に移行し、肝心の環境保全を議論することができなくなっちゃっているからである。この点、欧米と日本との間で続く不毛なクジラ・イルカ論争に似ている。
こういう不問な対立から、どうやったら脱出できるのだろう?
実際、リニアの反対運動をのぞいてみても、やっぱり共産党がどーたらこーたらとか、〇×労働組合とか、そういう言葉が目についてしまう。不毛な対立が、ここも引き継がれている。
…当方としては、くだらん対立なんかどうでもいいのだけど。
グダグダ書いてきたけど、リニア計画の進め方は、どーも旧社会主義国っぽい。旧ソ連の自然改造計画を彷彿させてしまうのだ。